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2012/02/17

淡島千景

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淡島千景さんが2月16日に亡くなった。
宝塚の娘役トップ。スターとして活躍した。宝塚歌劇団の28期生だという。
1924年(大正13年)2月24日の生まれというから、昭和を丸々生きた女優さんだ。
新聞の訃報でも、その代表作として、『夫婦善哉』(1955年)を挙げている。森繁久彌との名コンビで、ぐうたらな男を母性的に見つめる女性・蝶子の役を好演している。織田作之助の小説を原作として豊田四郎監督の名作だ。このコンビでの連作『駅前シリーズ』は東宝移籍後のこと。

テレビでは、NHKの大河ドラマの第一作、『花の生涯』(1963年)の記憶に残る。幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品で大老を尾上松緑が演じ、懐刀の長野主膳を佐田啓二、その愛人で長野主膳の意をうけて京都などで開国に反対する尊皇攘夷派の情報を収集する村山たか女を淡路が演じた。30代後半だったが、淡路の妖艶さときりっとした姿が美しかった。

私にとって、淡路千景という名との出会いは、TBSのラジオで連続ドラマとして流れていた『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』。ラジオの連ドラなどを記憶している人も近頃ないのだろうが、調べてみると、このドラマは1951年から64年まで続いていて淡島が登場していたのは3代目。1953年5月から61年4月までで、同じ宝塚で同期の男役トップスターだった久慈あさみとのコンビだった。因みに淡島たちの次の代は若尾文子と増山江威子で、初期のスポンサーは朝日麦酒だった。へんなことを覚えていた。

新聞の訃報には近影が載っていたが、女優さんは近影でなくて良いのにな、というのが率直な感想である。
2月16日は私の66歳の誕生日であった。

2012/02/15

日劇

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「日劇」は、正しくは「日本劇場」であった。
有楽町にあって、1981年(昭和56年)の2月15日にその幕を下ろした。
現在は、隣にあった朝日新聞の社屋跡地とともに、再開発されて有楽町センタービル、いわゆる「有楽町マリオン」となっている。

出来上がったのは1933年(昭和8年)。もともとは昭和4年に資本金350万円で創立された日本映画劇場株式会社を、そもそもの母体として建設が始まった。ところが建築工事が遅々として捗らず、鉄骨を数寄屋橋畔に曝すこと数年。道往く人びとから”骸骨劇場”などと陰口を叩かれながらの竣工、開場であったという。

当時の新聞を見ると「陸の竜宮」というのが、日劇のキャッチフレーズであったようだ。その威容は丸の内、銀座を圧したという。そう、当時は、数寄屋橋の下には川が流れていたのだ(現在の高速道路は川を埋め立ててできたもの。川があって橋があったればこそ『君の名は』が成立したわけだ)。経営的には何度か行き詰まり、日活が一時代変わりしたものの続かず、結局、東宝がここを拠点とし、戦後も占領軍の接収も免れて、レビューに映画にと華々しい時代を迎える。

調べていると、なんとインターネットの世界では、好事家が多いことに改めて感心した。日劇のこと、レビューのことを昭和の初年からの一次資料を集め、展開しているブログを見つけた。細かなことは、このhttp//yachan.sitemix.jp/s08-13nen.html/[「昭和レビュー狂時代」]を見ていただく方がよさそうだ。

写真の一番上が、日劇ができた直後と思われる絵葉書。中は昭和40年代。新幹線が手前を走り、奥には高速道路が見える。日劇のスカイライン部分には東芝の宣伝ネオンが取り付けられている。
そして一番下は、熱狂的なファンの紙テープを巧みに避けながら、身体をけいれんさせるようにしながらギターをかき鳴らしながら歌うロカビリー歌手の図である。

日劇といえば、ダンシングチームにニュース映画の上映館として名を残しているが、ロカビリーを語るのに、ここを舞台とした「ウエスタンカーニバル」を欠かすことはできない。
1958年(昭和33年)2月に第一回のカーニバルは開かれた。初日だけで9500人、1週間で4万5000人のを動員したという。主流はハイティーンの少女たち。テープを投げ、絶叫し、ステージに上がって歌手に抱きつく姿は社会現象として注目を集めた。「ロカビリー3人男」と呼ばれたのは先日亡くなった山下敬二郎をはじめ平尾昌晃、ミッキー・カーチス。この3人を追って小坂一也、水原弘、坂本九、飯田久彦ら人気歌手がこの舞台から育っていった。森山加代子などというのちに「白い蝶のサンバ」などで帰り咲いた歌手もいたのが懐かしい。ロカビリー・ブームはこの年の9月、「ダイアナ」のヒット曲をひっさげてポール・アンカが来日したことでピークに達した。それらも、今は昔のこととなった。

2012/02/13

五木寛之

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NHK総合の午後の番組に「スタジオパークからこんにちは:」というのがある。
13日の番組に、作家の五木寛之氏が出演していた。この番組、先日来の国会中継などでつぶれることも多いが、ゲストにはNHKの番組出演者を迎え、番組宣伝を兼ねるケースが多い。そこに五木氏が、なぜ本日出演なのか、が疑問だった。

どうやら、「お呼び」がかかった契機は、共同配信で全国の地方紙など44紙に連載していた新聞小説「親鸞 激動編」が「完」を見たことのようだ。私は読んでいないが、作家生活を中断して西本願寺の龍谷大学の聴講生として仏教史を学んだこともあって、「蓮如」「親鸞」と、最近の五木小説は激動の平安末期からの宗教者を主人公にしたものが多い。
司会者に尋ねられ、「貴族から武士へと政権が移る、激動の平安時代末期は現代と似ている」と話す。天災がつづき、津波も来ることまで似ている、と。仏教の「末法」の時代で、京の町にも餓死者の骸が転がり、加茂の川原には腐臭が漂っていた。そんな時代に、今に名を残す宗教者が輩出している、とも。

今年、79歳。9月30日には80歳になる、と聞けば、なお現役で、新聞連載をストックなしに毎日書き続けていること自体に驚きと、畏敬の念を覚える。石原慎太郎都知事と生年月日が同じで、知事のニュース映像を見ると、自身をも見る感じがあるらしいく、「頑張ってほしいと思う」とも言う。
プロの文筆家、作家としては、慎太郎知事の方が先輩。『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、文壇にデビューしたのが、一橋大学に在学中の1956年(昭和31年)だった。一方の五木氏は当時、福岡の高校から上京して早稲田の第一文学部露文科に入学したものの、生活のためのアルバイトに精一杯で、1957年には学費未納で除籍(後年、未納学費を納め、除籍から「途中退学」扱いになった、と多くの略歴にもある)。作家として認められたのは1966年(昭和41年)の『さらばモスクワ愚連隊』が小説現代の新人賞を受賞てからだった。慎太郎氏のデビューから、ちょうど10年後のことだった。

私が五木氏の作品を知ったのは、翌年1967年に直木賞を受けた『蒼ざめた馬を見よ』が初めてだった。「蒼ざめた馬」というのはヨハネの黙示録にあらわれる、死を象徴する馬のこと。その題名でソ連の作家「アンドレイ・ミハイロフスキイ」が執筆したものの、国内では発表できない小説がある。ロシアのあるユダヤ系市民の3代に渡る物語。これを密かに日本へ持ち出し出版せよ――。この上司からの命令からソ連に入り、作家から原稿を入手する新聞社の外信記者が主人公だった。意外な結末が待つ、冷戦下の当時、ソルジニーツィンの『収容所群島』がフランスで発表されたのが1973年のことであったから、テーマの現代性に舌を巻いたものだ。
初出が雑誌『別册文芸春秋』(昭和41年12月)で、直木賞第56回というのは1966年下半期の作品が対象だったが、これが本屋に並ぶ以前、ゲラで読んだ。大学生だった私にゲラを読ませてくれたのは、通い詰めていた渋谷の喫茶店の常連で、業界雑誌の女性編集者だった。ロシアのアヴァンギャルド詩人・マヤコフスキーの名前をもらったのだという彼女の兄さんがやはり、早稲田の露文にいて、彼女も五木氏を知っていた。そして手に入ったゲラを読ませてくれた、というだけのことではある。そんな些細なことだが、いまでも私が五木氏にちょっと他人よりは余計に親近感を抱くワケだ。

五木氏はラジオ深夜便などにも、しばしば出演して、終戦をピョニャンで迎えての引き揚げの悲しい出来事の多くなども聞いているが、早稲田大学の抹籍以降、放送作家であるとかコマーシャルの作詞など、多くの職業を経験し、作家になる前には、当時は困難であったソ連や北欧の旅をしている。デラシネなどという言葉も、五木氏の青春の時代の言葉であった。
以降、『青春の門・筑豊編』などは週刊現代で毎週読んだ。『海を見ていたジョニー』『恋歌』や『ソフィアの秋』『戒厳令の夜』『風の王国 』……。随分と書いているな、と改めて思う。読んだものが追いつかないのもやむをえないな、これは。

2012/02/02

雪池忌

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2月3日は「雪池忌」。「ゆきち・き」と読む。
福沢諭吉翁の命日である。
学年末ということもあり、慶應義塾の学生にとっては、進級を願っての墓参の日でもある。

その「先生」の墓参先のことである。
50年も昔のこと、墓参先は確か、上大崎の常光寺であった。
ことし大学のクラスメートと、久しぶりに墓参をしてみようか、と話してみたところ
どうやらお墓の所在地がかつての大崎ではなく、麻布十番に近い麻布山善福寺だと聞いた。
ウィキペディアに尋ねてみると、なるほど1977年(昭和52年)に、常光寺から善福寺に移ったのだと知れた。さらに「改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。」ともある。

そんなことは、ツユ知らぬことであった。
それにしても福翁が亡くなったのが1901年(明治34年)のことである。なんで70年後の時に、お墓が移転をしなければならなかったのか。それも不思議なことであった。
慶應義塾に問い合わせみると、早速に「三田評論」の昭和52年7月号に名誉教授の
富田正文さんが書かれた「善福寺に移った福澤墓所」との記事があることをご教示いただいた。これで疑問は氷解した。(引用のカッコ内は富田名誉教授の記事より)

福翁の出身は九州・中津であるが、東京の菩提寺は真宗の麻布山善福寺。墓所は三田古川端の竜源寺、重秀寺などの変遷があるが、上大崎の墓地を自らの墓所とすることは福翁が決めた、という。亡くなった際には、善福寺で葬儀を営んだ後に、霊柩は上大崎に運ばれ埋葬された。ただ、福翁が亡くなった時点でも、その場所は本願寺が管理をしていて、常光寺の墓地ではなかった。実は、常光寺が福翁埋葬後の明治42年、ここに高輪泉岳寺の近くから移転してきたのだという。

福澤家では、一族の遺骨を多磨霊園に集めることを検討していたが、戦争と戦後の混乱があって、段取りがのびのびになっていた。そのうちに、常光寺で本堂の建直しの事業が起こり、慶應義塾関係者の寄進などもあって昭和52年に立派に落慶した。そこで常光寺護持会というものができて、その会則の印刷物が福澤家にも送られて来た。その中には檀家心得その他のことが書かれ、「この寺内に墓地を持つものは浄土宗の信徒でなければならぬ、これまで信徒でなかった者はこの際改宗するか、改宗を肯んじない者は墓地を撤去して他に移転することを要する」という意味のことが記されていた。これを見た福澤家は急遽、交詢社で親族会議を開き、対策を協議。福翁の二男捨次郎氏の継嗣時太郎氏が「捨次郎から常々聞かされていたことろでは、祖父諭吉が上大崎の墓地を手に入れたとき、自分はこの場所が眺望開濶なので気に入ったから自分の墓地ときめるが、将来なにか不都合があってこの墓地を他に移す必要が生じたら、そのときは菩提寺の善福寺内に移すようにしてもらいたいといっていたそうだ。これは言わば祖父の遺言として考えるべきではないか」と話し、そのように決まったのだそうだ。善福寺への移転が決まって常光寺に「撤収」を申し入れた際には、常光寺側にも意外であったらしく「福澤家を対象にしたものではない」と翻意を求める一幕もあったらしい。これが「昭和52年の移転」の理由であった。

さて、改葬にあたって、墓地が発掘された。初めに夫人の霊柩が見つかり、さらに1mくらい掘り進んでやっと福翁の霊柩に達した。「内側に銅版を貼った部厚な木棺で、蓋を開くと、棺の内部はいっぱいに地下水が満たされ、先生の遺体はほとんど腐朽せずに屍蝋化しているようにみえる。着衣は黒く色が変わってはいるが、帯の形などもそのままである。着衣に被われていた脛の部分などは真白く見える」。そこで慶應大学医学部で解剖学の三井但夫教授、文学部で考古学を高ずる清水潤三教授に現場をみてもらう。所見としては「偶然にこういう結果になっただけで、永く保存に堪えないし、またこれを保存する学術上の価値も見出されない」ということで荼毘に付されることになったのだそうだ。この点、ウィキペディアの記述と、ややニュアンスの違いもあるが、三井教授の「福澤先生の遺体所見」の原稿も付されており、いわば鑑定書として読めば、納得のできる「所見」であると思えた。

2012/01/30

米兵ジラード

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氷菓のジェラートでも、サッカー・プレミアムリーグのスティーヴン・ジェラードでもない。
事件当時、中学生になったばかりだったが、ちょっと鼻が高く、ちょっと米国人風の容貌だったクラスメートが「ジラード」の渾名をつけられていたのを覚えている。今ならイジメとでも言われる渾名だったのかもしれない。それだけ有名な名前でもあった。

1957年(昭和32年)1月30日に、群馬県相馬が原の在日米軍演習地で、薬莢拾いに演習地に入り込んでいた日本人主婦が実弾を受けて死んだ。この死亡事故が、当初は流れ弾が当たったものと思われていたのが、やはり砲弾拾いをしていた日本人の「米兵に射殺された」との証言で、日米の重大問題へと発展していく。関係者が米軍キャンプで首実検して名指しした。その米兵の名がジラードだった。当時の新聞を見ると、群馬県警本部の発表で、米軍第一騎兵師団第8連隊第2大隊の特務3等兵でウイリアム・S・ジラルド21歳という表記になっている。やがて「ジラード」という表記に落ち着いていく。

時はサンフランシスコ講和条約から5年。60年安保の3年前の時代。まだ占領時代の影をひきずる国民の間で複雑な対米感情があった。政治面では、石橋湛山総理が病気療養で施政方針演説は岸信介外相が臨時首相代理として代行するのではないか、との観測記事が31日の朝刊のトップ記事。

「米兵が射殺」の一報が紙面に出てくるのが2月3日の朝刊。この目撃者の証言をもとに社会党の代議士が現地調査、「4日からの衆院内閣委員会で問題にする」とある。目撃者の話によると死亡した主婦、坂井なかさん(46)は「米兵に追われて逃げようとしたところを後ろからねらい射ちされた」といっており、「死体を解剖した群大井関教授は弾丸が背中から入り、肺を通って心臓で止まっていた」とも語っている。事件のあった日、米軍が演習中で立ち入り禁止になっていて、「演習場の立入禁止区域内に日本人が入れば、刑事特別法で懲役1年以下、罰金2000円以下の刑に処せられることになっている」と、記事の末尾にある。
現地調査をした社会党の軍事基地対策特別委員会では「故意による射殺が立証できた」として「殺人米兵を日本側で逮捕、処罰することを政府に求める」と、フットワーク軽く、舌鋒は鋭い。
この米兵が「公務中」で会ったか否か、が裁判権をどちらが持つか、のポイントになり、裁判を日本か米本国で行うか、は両国民の関心の集まるところとなった。結局、日本への配慮を優先させた米国務省の判断で、裁判は日本で行われる。

裁判の結果は、懲役3年、執行猶予4年が11月19日に前橋地裁で言い渡された。
この裁判の間に、ジラードは、「鹿児島県生まれの愛人」と基地内の教会で結婚式をあげている。

この事件は、最近でも沖縄で繰りかえさっる基地と暴力の原点でもある。犯罪者の引渡しのルールをはじめ、基地の米兵のモラルの問題。そして、反米運動の発火点という。1994年11月20日付けで公開された外交文書で、この事件をめぐる日米の水面下の交渉も明らかにされた。


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